企業·IR情報広電の歴史

発展充実期(昭和30年代)

軌道の車両近代化とスピードアップ

昭和25年までに原爆で被災した車両の復旧が一段落し、翌年からは800形、500形、550形といった新型車両を順次投入していきました。これによって昭和26年には、開業以来使用していた木造車100形電車を全て休車とし、全車両の鋼製化を完了しました。また、新型車両の中でも特に昭和30年に登場した550形は、騒音低減のため弾性車輪を使用して「音無し電車」と呼ばれるなど、新技術を意欲的に取り入れました。

車両の近代化に並行して、電車の走行速度についても種々研究を行いました。その結果、制限速度の見直し、車両のブレーキ改造などによって、昭和30年1月1日より市内線電車のスピードアップを実施しました。

宮島線直通運転

写真:2000形電車 2000形電車(撮影:田辺拓氏)

昭和33年、太田川放水路の建設に伴う土地区画整理事業によって、己斐駅が移転しました。これにより市内線と宮島線との直通運転が可能になり、6月20日、草津~広島市内でラッシュ時の直通運転を開始しました。その後、団体専用電車や海水浴シーズンのみの直通運行を経て、昭和37年1月10日より廿日市~広島市内の恒常的な直通運転、翌年5月6日に宮島口~市内直通運転を開始しました。

バス路線の拡充

写真:松江線バス 松江線バス

昭和26年より岩国線、呉線の運行を開始し、当社の花形路線となりました。岩国線は当社が最初に運行を開始しましたが、翌年までに5社が競合する全国でも有数の高密度の路線となりました。呉線は国鉄バスが運行していたところへ当社と呉市営バスが新規参入し、3社競合となり、華やかな競争を繰り広げました。また、当社の全営業エリアにおいて、幹線より枝線を毎年4~5路線のペースで拡充していきました。この結果昭和30年代の10年間で免許キロは965kmから1,559km、車両数は270台から609台、年間走行キロは1,100万kmから3,000万kmと激増しました。

昭和34年10月20日には広島~益田・有福温泉間、翌年7月25日には広島~松江間の長距離バスを運行開始しました。当時、車両は現在のものに劣らない豪華で高性能のものとなっていましたが、幹線道路といえども山間部では整備が進んでいませんでした。

一方、山陽側の国道2号の整備が進むと、関西~中国地方各都市間に路線バスを走らせようとの機運が高まり、当社を含む中国5県23社が共同出資で中国急行バス(株)を設立しました。この会社は後に関西側の関西急行バス(株)と合同し、沿線の公営バスも加えて日本西部急行バス(株)となり、昭和39年に大阪~下関間の路線を申請しました。しかしこの頃から次第に激しくなる交通渋滞や国鉄の特急列車増発に対抗できず、路線バスは実現しないまま昭和49年に会社を解散しました。

経営の多角化

当社は大手私鉄の現状などに習い、今後とも運輸業だけでやっていくことは困難が予想されることから経営の多角化を進めることとしました。おりしも戦後の復興が一段落してレジャーが次第に一般に定着してきた昭和27年、吉和村へ冠高原ヒュッテを建設し、スキー場の経営をスタートしました。しかしその後の事業展開は関連会社を通して進めることとし、昭和29年に旅行業の広電観光(株)を設立しました。次に藤田組(現フジタ)と共同出資で鈴峯開発(株)を設立し、五日市町に藤垂園という住宅地を開発しました。昭和33年には宮島口~宮島間の渡船を運航していた宮島松大観光船(有)に経営参加し、翌年には広島観光開発(株)が宮島弥山へのロープウェイを運行開始し、当社のグループで広島市から宮島弥山をつなぐという戦前からの構想を達成しました。昭和34年には銀鱗不動産(株)が、当時広島市内ではまだ少なかったオフィスビルとして第一広電ビルを竣工しました。昭和39年には広電興産(株)が宮島線の起点、己斐駅にターミナルデパートとして、また当時は珍しかったセルフ方式の店として広電会館をオープンしました。