企業·IR情報広電の歴史

戦後復興の取り組み(昭和20年代)

電車の復興期

原爆投下から約1ヵ月後の枕崎台風によって、天満橋が落橋するなど当社はさらに被害を受けました。極端な物資の不足と激しいインフレの中、当社は台風による増水で川に落ちた車両まで引き上げて利用するなど、復旧に全力を注ぎました。しかし復興期で急激に増えた輸送需要に満足に対応できず、電車は常に混雑し、GHQの車外乗車禁止の通達も何のその、車外に人がぶら下がって乗車する状態でした。

昭和22年11月1日の江波線復旧により、市内電車はほぼ全線の運転を回復しました。また昭和24年度にはほぼ全車両の復旧を終えました。白島線は都市計画道路の建設に合わせて経路を変更することとし、昭和27年に運行を再開しています。

昭和25年には広島平和記念都市建設法が公布され、広島市の復興事業が進みました。当社は道路拡張による軌道移設を順次施工しました。

バスの復興期

写真:木炭バス 木炭バス

物資が不足する中、軍から払下げを受けたトラックを改造したバスを走らせるなど復興へ向けた努力を行いました。燃料の木炭も不足し、戦後になって薪バスも導入しました。昭和23年頃からガソリンも入手できるようになりましたが、量が不足したためナフサを混入して使用しました。同年にはディーゼル車を導入し、車両の大型化を図ることが出来ましたが、木炭車は昭和27年、ガソリン車は昭和31年まで使用していました。

当社は他に輸送手段がない電車と郊外線のバスを優先的に復旧しました。そのため、市内バスの復旧が遅れ、昭和23年になっても十数台で運行する状態でした。これに対し、帝産広島バスなど競合会社が出現することとなります。昭和25年には労働運動が先鋭化し、当社の電車・バスはストライキが相次ぎ、市民の批判を浴びましたが、こういった情勢が競合会社の設立にさらに拍車をかけました。